『言語の本質』書評 ことばの起源とAI時代に効く視点
目次
ことばはどうやって生まれたのか、という素朴な疑問
子どもはある日突然、身の回りのものに名前があることに気づく。「ワンワン」が犬を指し、「ブーブー」が車を指すと知った瞬間から、猛烈な勢いで語彙を増やしていく。この当たり前に見える現象を、真正面から突き詰めたのが『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美)である。認知科学者の今井むつみと言語学者の秋田喜美が、それぞれの専門を持ち寄りながら「ことばはなぜこの形をしているのか」「どうやって記号としての意味を持つに至ったのか」を追いかけている一冊だ。
言語学の伝統的な立場では、ことばの音と意味の結びつきは恣意的だとされてきた。「イヌ」という音の並びが犬という動物を指す必然性はどこにもない、という考え方である。この本はその前提を丁寧に検討しながら、言語が生まれる出発点には、音と意味がもっと直接つながる仕組みが働いていたはずだと論じていく。恣意性そのものを否定するのではなく、恣意的な体系にたどり着くまでの「助走」の部分を解き明かそうとしている点が、この本のユニークなところだ。
オノマトペが言語進化の「入り口」だったという視点
その鍵として扱われるのがオノマトペ、いわゆる擬音語・擬態語である。「ザラザラ」「ふわふわ」「ドキドキ」といったことばは、音の響き自体が意味を連想させる性質を持つ。カ行やタ行の硬い音は硬いものや速い動きを、マ行やナ行の柔らかい音は丸みや遅さを連想させやすい、という音と感覚の対応関係は複数の言語で観察されているという。こうした音と意味が結びつきやすいことばは、言語をまだ十分に持たない子どもにとって覚えやすい入り口になる、というのが本書の見立てである。日本語はオノマトペの種類が特に豊富な言語のひとつとされており、身近な例から議論に入っていきやすい。
そこから議論は、オノマトペのような「感覚的にわかることば」だけでは言語は完成しないという指摘に進む。「ドキドキする」を「緊張する」「不安になる」といった抽象的な語に置き換えられるようになって初めて、言語は目の前の状況を離れて過去や未来、他人の心情までも表現できる道具になる。感覚に根ざした具体的なことばから、恣意的で体系立った抽象的なことばへ。この移行の過程こそが言語進化の核心だという主張は、単なる語源の話にとどまらず、ことばとは何かという根本的な問いに踏み込んでいる。
動物のコミュニケーションと何が違うのか
本書ではさらに、人間の言語と動物のコミュニケーションを分けるものは何かという論点にも踏み込む。多くの動物も鳴き声や仕草で仲間に情報を伝えるが、それらは限られた種類の信号の組み合わせにとどまることが多い。人間の言語は、有限の単語を無限に近い組み合わせ方で並べ替え、これまで誰も口にしたことのない文まで作り出せる。この「組み合わせて新しい意味を作る」性質がどこから生まれたのかを、オノマトペから抽象語への移行という筋道で説明しようとしているのが本書の野心的なところだ。
AIの弱点でもある「記号接地問題」
もう一つ重要な論点が、記号接地問題と呼ばれるものだ。ことばという記号が、実際の感覚や身体経験と結びついていない限り、その記号は本当の意味で「理解」されたことにはならない、という考え方である。犬の絵を見せられなくても「イヌ」という文字列だけで別の文字列と結びつけることはできるが、それは辞書の中で単語が単語を説明し合っているのに近く、現実の犬を知らないまま完結してしまう危うさをはらんでいる。
これは今の生成AIを使っていると実感しやすい話でもある。大規模言語モデルは膨大な文章から単語同士の関係性を学習し、驚くほど自然な文章を生成できるようになった。ただしモデル自身は「熱い」を実際の熱さとして体感したことも、「痛い」を痛みとして経験したこともない。ことばとことばの結びつきだけで意味を扱っている点で、身体を通して世界とことばを結びつけてきた人間の言語習得とは根本的に成り立ちが違う。この対比を知っておくと、AIが出す文章のどこが得意でどこが危ういのかを見極める感覚が変わってくる。仕事でAIに文章を書かせるときも、身体感覚や実体験が絡む部分、たとえば味の感想や体調の描写のような箇所は人間側で補うべきだと意識できるようになる。
子どもの言語習得に見る、大人にも役立つ推論のクセ
本書では子どもがことばを覚える過程についても紙幅を割いている。子どもは限られた例からルールを見抜き、それを新しい場面にも当てはめようとする。この推論のしかたはアブダクション推論と呼ばれ、時には行き過ぎた一般化を生む。たとえば「食べた」「歩いた」という過去形のパターンを覚えた子どもが、不規則活用の動詞にまで同じルールを当てはめて言い間違えることがある、というのはよく知られた現象だ。間違った推論であっても、限られた情報からパターンを見つけ出す力そのものは、言語習得を支える重要な仕組みとして本書では前向きに評価されている。
間違いを含みながらもパターンを見つけ、仮説を立て、修正していく。この一連の流れは、子どもの言語習得に限った話ではない。新しいツールや仕事のやり方を身につけるときにも、人はまず少ない手がかりからルールらしきものを推測し、実際に使ってみて外れていたら直す、という同じ手順を踏んでいる。本書を読むと、自分が何かを学ぶときの頭の使い方を、少し外側から眺め直すきっかけになる。子ども特有の現象として読み流すにはもったいない内容だ。
どんな人に向いている本か
言語学や認知科学の専門知識がなくても読み進められる書き方になっている。専門用語が出てくる箇所には具体例が添えられており、犬の鳴き声や子どもの言い間違いといった身近な題材から議論が組み立てられているためだ。ことばそのものに興味がある人はもちろん、生成AIを日常的に使っていて「人間の理解とAIの出力は何が違うのか」を自分の言葉で説明できるようになりたい人にも合う。子育て中で子どもの言い間違いを面白がっている人にとっても、身近な観察が学問的な問いにつながっていく感覚を味わえるはずだ。逆に、すでに言語学や認知科学の入門書を何冊か読んでいる人にとっても、オノマトペという切り口自体が新鮮に映るはずだ。
今日から試せる小さなアクション
読んだ内容を頭の中だけで終わらせず、生活の中で試せることが二つある。ひとつは、日本語のオノマトペを意識して観察してみることだ。会話や広告、商品パッケージに出てくる「サクサク」「もちもち」「キラキラ」といったことばを見かけたら、その音がどんな感覚を連想させているのかを少し立ち止まって考えてみる。似た意味の別の擬態語に言い換えたときに、受ける印象がどう変わるかを比べてみてもいい。音と意味のつながりを体感すると、本書の主張が抽象論ではなく身近な現象として実感できる。
もうひとつは、AIに何かを説明してもらったときに「この説明は身体感覚に基づいた理解から来ているのか、それとも文章同士の関係性から導かれたパターンなのか」を意識的に区別してみることだ。特に体調や痛み、味の感想など、身体感覚に関わる話題でAIの回答を使うときは、実体験に基づく判断ではないことを踏まえて参考程度に受け取る習慣をつけておくと、AIとの付き合い方が一段落ち着いたものになる。逆に、文章の要約や情報整理のように言語間の関係処理が得意な作業では、遠慮なくAIに任せる、という線引きの目安にもなる。
まとめ
『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』は、ことばの起源という古くて新しい問いを、オノマトペと記号接地問題という二つの切り口から掘り下げた一冊だ。子どもがことばを覚えていく過程を追う面白さと、生成AIの理解の限界を考えるヒントの両方が詰まっている。ことばを当たり前の道具として使い続けてきた人ほど、読み終えたあとに自分の話し方や、AIとの会話のしかたを少し違う角度から見直したくなるはずだ。
紹介した書籍が気になった方へ
「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」はAmazonで検索できます。活字だけでなく、耳から"ながら"で学びたい方にはAudibleの無料体験もおすすめです。
Amazonで価格を見る Audibleを30日無料で試す紹介した書籍が気になった方へ
「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」はAmazonで検索できます。活字だけでなく、耳から"ながら"で学びたい方にはAudibleの無料体験もおすすめです。
Amazonで価格を見る Audibleを30日無料で試す